雑記・雑感

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学問の自由は研究者のみならず万人の権利

 色々仲間との議論や、SNSで時事問題などについて色々な方と議論していて感じたことです。

 「学問の自由は研究者だけの特権ではなく、万人に認められる」

 それが私の2023年9月現在の私・代表の考えです。芦部信義博士の憲法学の本を座右の書としているものとして、荒唐無稽なことは書いていないつもりだ。

 朝日新聞だったかである大学の先生(憲法学?)が日本学術会議の問題に絡んで、「学問の自由は大学人・研究者だけのものである。それ以外は表現の自由によって権利が担保される」という趣旨の記事を書き、twitterで話題になりました。

 私は大いに疑問と反発を抱きました。

 それは違う!そんな一部だけの特権であってたまるか!学問の自由は万人の権利である!

 たとえば新種を発見する昆虫マニアの中学生や、地元の郷土史を一所懸命に研究し後世に語り継ぐアマチュア郷土史家など。彼らにも学問の楽しさを謳歌し追及する権利はある。それが学問の自由だろう。

 その研究成果を正式なアカデミアで通用する学術論文にするには、大学などの研究者のサポートは必要であろうが、研究や学問は誰にでもできるのである。憲法第23条は当たり前の話なのである。

 また、表現の自由という話も出たので少し追記する。

 「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」というものが数年前に話題となった。政治的な意図を持った悪趣味としか言えない「作品」に愛知県から公金が支出されていた問題。

 ポイントは2点あると考える。

 1点目。内容の問題。

 内容的には侮辱罪やわいせつ物陳列罪など法規に違反しない限り、合法であり自由だと考える。精神的自由権の一つである表現の自由は最大限認められねばならない。

 書くことも憚られるようなあの一連の悪趣味な作品群は、暴走族の下品な落書き(公共物への器物損壊罪などであることを差し引けば)、いじめられっ子の机の上に罵詈雑言を書きなぐり花瓶を置く行為(侮辱罪、傷害罪、器物損壊罪などを差し引けば)同様に権利を認められる。嫌味を込めてこう書く。

 嫌味を込めない例として。幼稚園児の描くクレヨン画や小学生の歌う替え歌なども、表現の自由で保護され、著作権は自然権的に発生する。

 2点目。公金の支出と公序良俗の問題。

 公金の支出は問題となる。同様に精神的自由権である信教の自由(憲法第20条)をめぐって、愛媛県玉串料訴訟だとか、靖国神社公式参拝訴訟など色々係争になってきた。信教の自由とは、国家権力が特定の宗教への禁止はもちろん、公金支出などの援助などをしない、国家として宗教行為を禁ずる、などである。

 それを援用すれば、表現の自由(憲法第21条)と公金支出の関係にも同様の制約があって然るべきではないか?判例も芦部先生の解釈論にも載っていない話なのだが。地方自治体が特定の政治的意図を持った展示物に公金支出をすることは、喧々諤々の憲法学的論争をしても良いし、最高裁で憲法判断を出すために、住民は訴訟提起してほしかった。破綻した知事のリコール運動ではなく。

 また公序良俗の問題もある。一点目で書いた、暴走族の落書きやいじめられっ子の机の上の花瓶などは明らかに法的にも公序良俗にも反している。

 あの悪趣味な作品群が該当するか、それは主観的なものとなるが、故人を模した人形の首を斬る作品が該当しないわけがない、と私は思う。

 繰り返すが、憲法の論争をするためには、住民は訴訟提起をして欲しかった。

 また同展示会の実行委員には、真の表現の自由を訴えるなら、旧ソ連政府の圧力で上映自粛となった、ソ連軍樺太侵攻時の日本人女性の集団自決を描いた映画「氷雪の門」や、満州や朝鮮半島からの戦後引揚者への性暴力を訴えた上坪隆著の「水子の譜」やカワシマ・ヨーコ・アトキンス著の「竹林はるか遠く」も展示してほしかった、と切に思う。

(2023.9.17  文責・代表)