防衛研究推進を求める自由市民の会 代表です
先日、理系研究者を目指しておられる学生さんよりご意見のメールを頂きました。 あまりにしっかりして素晴らしく、自分が学生時代にはこんな文章など書けなかっただろうと感嘆します。
ご承諾を取りましたので、匿名で公開させていただきます。
防衛研究の自由を護ろうとする皆様へ
突然のメールに関するご無礼を先に謝罪します。私は理学分野の研究者を志している者です。
この活動の有意義性には一定の理解を示しています。そもそも、科学のほぼ全ての分野、特に工学分野や化学、物性研究、原子分野などは全て民生研究も防衛研究も、その学問の応用という観点からすれば、境界線などは存在しないものです。電波などの研究を一つ取っても八木アンテナのようなレーダーとして利用可能なアンテナも存在するわけであり、これをもっと幅広く使えば、昔の家庭に備え付けられていた受信機になるわけであります。他、潜水艦に備え付けられているソナー一つでも魚影探査機にもなり得るなど、そもそも、防衛技術をそうたらしめるものの定義すらないのに、何を以て防衛技術と言えるのだろうか、という疑義が生じます。 要は、利用方法一つであらゆるものは変容する訳であります。たとえ、それが民生用のものであれども、です。今の世の中、PS3を300台程度連結して使えば、ちょっとした軍事用のスパコンにだってなりますし、それで核開発もやろうと思えば、出来るのです。
では、その中で防衛技術とは何なのか?何が軍事技術なのか?それすらまともに成熟した議論が出来ていない日本学術会議が防衛技術の研究禁止などを宣言し、利権を以て言論弾圧を行えば、あらゆる研究は彼の学会やそれに所属する無教養で野蛮な全体主義者たちによる「彼らが気に入らない研究の排除」という本質的には学問の自由の弾圧に近い暴挙へと変容する可能性すら有り得ます。そんな野蛮を今まさに犯そうとしている現在の日本の学問環境は先の大戦前夜の不自由な学問環境と何が違うのでしょうか? そもそも、我々が平和を望んでいても彼我の国が平和を望まぬ軍事国家であれば、我々は否が応でも身を守る術を必要とするわけであります。その備えは一朝一夕にはできないものです。であるならば、我々学問をする者は防衛研究の有用性を認めつつも、その研究の有り様が人類の破滅へと繋がらないように監視しつつ、それでも、あくまでも自衛のために必要な盾や矛を備えることも真剣に考えねばなりません。
戦後の世代はそれを常に見落とし、軽視し、そして、現実という観測事実から目を背けてきました。それはまごうとこなき失態であり、取り返しのつかない大罪であり、度しがたい怠惰であると断言します。
しかし、平成の世代である私を含めた学者の卵はその負債を次の世代に残してはならないと確信しております。科学者は、科学者である前に国民であり、その国家という社会集団に属する人なのであります。
ならば、第一に自らの社会に対する義務の履行が求められ、第二に人類繁栄への貢献をその社会における義務の遂行と共に求められるわけであります。科学者の権利とはそうしたことを果たし、積み重ねたときに強い力となり、あらゆる発言に説得力をもたらすのであります。それこそが学問をする者の最大の武器でもあるわけです。そのような当たり前のことを忘れ去った人々が学問の自由を奪い去りかねない宣言をしたことについて、学問の自由を信じる私は一種の恐ろしさを感じます。彼らは軍国主義のお題目を平和主義という大義に鞍替えして、学問全てを自分たちにとって都合の良いものにしようとしているに過ぎず、学問の全体主義化を昔は軍国主義、今は平和主義の下で行おうとしていると私は思います。
ならば、皆様の活動とは、すなわち、彼らの内に存在する学問の全体主義化という愚かな野望へのアンチテーゼであり、本質的にはあらゆる研究の自由を保障するための活動であると信じています。学問の自由とは、安定した社会、義務と権利の遂行の中において自由が達成されるものであり、それが成り立つ社会にこそ、真の学問が健全に育つのであります。 ならば、これは防衛技術の保護というものばかりではなく、本質的には、学問の自由を守る戦いなのだと思います。 なので、私が皆様の活動が良い結果となることを祈ると共に、この問題の本質は「学問の自由のための戦い」であることを皆様に意識していただきたいと思います。若い人間の拙文ではありますが、皆様のご健闘をお祈りして、文を締めくくろうと思います。長文失礼いたしました。
匿名の学生より(※原文を読みやすいように、ブログ主が改行・スペースを入れさせていただきました。)